戦国七本槍 その② 姉川七本槍
戦国七本槍の第二弾!
「おいおい武蔵、お前は姉川派か?」
「あれだけTwitterでは徳川幕府をdisっておいて、結局徳川の名に縋るのか?」
など色々な意見があるでしょうが必殺の二天一流スルーをさせていただきまする!
①姉川の戦いとは
浅井朝倉VS織田徳川の有名な戦いです。
事の発端は1570年
上洛要求などを拒否にした朝倉家に向かって侵攻を開始した織田信長公。
しかし、途中で縁戚関係であった浅井長政公に裏切られ背後をつかれてしまいます。
そして信長公は命からがら何とか逃げ出しました。これが信長公の人生の中でも3本の指に入る大ピンチ「金ヶ崎の退口」です。
その後ブチ切れた信長公は色々あって、徳川家康公と共に浅井も朝倉もぶっ飛ばしました。詳しくはゴンベちゃんへ@suzunone_1590 (丸投げ)
上記の戦で特に活躍した徳川家の武将は姉川七本槍と数えられました。
その中で1番活躍したのが「渡辺金太夫」さんです!
渡辺金太夫照
名前はテラスと読みます。
遠州高天神城衆として徳川家康公に仕えていました。姉川の戦いでは一番槍の活躍をし、
織田信長公から
「天下第一の槍である」
と感状を贈られました。
その後も徳川家で活躍……したのではなく、姉川の戦いから4年後の天正2年(1574年)に武田家に高天神城を落とされ、その際に城を守っていた照はそのまま武田勝頼公の麾下に加えられました。
う〜んこの信長の野望っぽさ
天正10年に織田信忠公が高遠城を攻めた時、仁科盛信の配下であった照は高遠城の防衛に当たっていました。
しかし、城内は沢山の逃げ出す兵士ばかりで、照も「お前は元々徳川の兵だろ?裏切るかも知れぬし、そうでなくとも元上司とは戦いづらいだろう。城を出ていくがよい」と言われてしまいます。
すると照はこう答えました。
「確かに……元々三河の兵であり、武田に仕えて8年の新参者。疑われるのもご最も……ただ」
「俺は武田の渡辺金太夫だ!!」
「二心なんてねぇわ!武田として死なせろ!」
この言葉に感動した盛信は伝家の脇差を照に与えました。
城の南側に配置された照は
1丈3尺もの巨大な槍を振り回し敵中に突っ込んで行き、何人もの敵を切って回る大活躍をしました。
しかしそのまま照は討死。敵方からも称賛され「この戦で随一の活躍をしたのは照である」とまで言われ、地元民に手厚く葬られました。
彼は赤いからかさに金の垂れ紙を何枚も付けて超目立つ格好で戦っていました。
敵に狙われやすくても戦い抜いた真の強者ですな〜
さて、今日はこれま……っと……
姉川七本槍の話でした……。言ったら悪いのですが他の方はあまりぱっとしない……。
信長公から直接感状を貰ったのはこの渡辺金太夫だけで、他の方は後日だったんですよね〜
で、一応他のメンバーは
門奈左近右衛門
伊達与兵衛
伏木久内
中山是非之助
林平六
吉原又兵衛
です。
で、武蔵は好きな逸話のある渡辺金太夫さんのことをかけたのでぶっちゃけて言っちゃいますが。
……
……
……
はい……実はこのメンバーは明治時代に出版された書物にしか書いてない明らかに嘘くさいアレです……。
※武将は史実に出てきます。
「賤ヶ岳七本槍っつーのが人気やなぁ」
「せや!賤ヶ岳より昔の姉川にも七本槍がいたってことにして一儲けしたろ!」
「知名度もまぁまぁなくて手頃で面白そうな武将は〜っと〜」
……的な
はい、そんな感じのオチです。
明治に作られた戦国の話って結構あるんですよね……
まぁ武蔵も最近吉川英治先生に「遅刻した設定」も付けられて根深く浸透してますし……
で……でも!他の姉川七本槍の6人の方も割と興味深い方ばかりなので、あとは自分で調べてね〜〜〜
え?結局自分で調べるなら紹介ブログの意味が無い?
……じゃあ一つだけ
門奈さん以外は皆、徳川→武田に移ったらしいです。
やーいやーい!徳川のう〇こ〜!!
……それでは今日はここまで!
それではまた次回の七本槍でお会いしましょう!
(諸説あり)
Twitterもよろしくお願いします!
@_Musashi634
戦国七本槍 その① 賤ヶ岳七本槍
七本槍……
最近の戦隊ヒーローは最初の5人+追加戦士が主流で7人体制らしいですね。
これは賤ヶ岳七本槍をイメージし……たりは多分してないです……はい
四天王や十傑など選ばれし集団というのはかっこいいですよね
そんな中で今回は七本槍についてまとめてみました。
「七本槍って賤ヶ岳の戦いだけじゃないんだ!」っと思う方も多いでしょう。ベストナインやらゴールデングラブ賞やら今でも決めてるくらいですから選ばれし者というのは人類にとって胸熱なものだったので戦国時代にも結構いたようですね〜
それでは本文に行きましょう!
1番有名な七本槍です。
賤ヶ岳の戦いは織田信長公亡きあと、明智光秀公を討った羽柴秀吉と織田家重鎮柴田勝家の織田家を2分した感じの戦いです。
賤ヶ岳の戦いで勝者した羽柴陣営で活躍をした7人の事を賤ヶ岳七本槍といいます。
メンバーはこの7人
ざっくりと7人の説明をします。
賤ヶ岳七本槍最年長
浅井長政公に仕えていたが、後に自ら頼み込み羽柴秀吉公の家臣になる。
敵将から評価されたり秀吉公から赤母衣を賜ったり沢山の功をあげた。
(余談ですが朝鮮出兵が話の韓国ドラマで彼は主人公のライバルポジションで日本最強の将となっています笑)
色々あった……けどここでは逸話を書きましょう。
山崎の戦いで死体に扮して秀吉公を狙った明智光秀公側近を討つ活躍をしたり、石田三成の教育をしたり文武両道な人だったとか。
有名な話はやはり豊臣→徳川に移りったこと
「大坂方は兵士も軍備もクソで余裕で勝てる」と内部情報をしっかりペラペラ(ルイス調べ)
小牧・長久手の戦いで首級を取ったり、二重砦の戦いでも活躍したりとムッキムキ
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠公についていって一緒に遅刻で特に武功なし。
大坂の陣では
「豊臣につく!やっぱり俺の親父は秀吉様!」と家康公に直談判するも
「ダメだわ!!お前危ねぇ奴だな……江戸で留守番してろ!!」と一蹴り……
その後は徳川家光公の代まで徳川家で人生をまっとうした。
猪武者とは彼のためにある言葉。みんな大好き正則さん。今更生き様は言うまでもないので、これまた逸話を紹介
・「黒田武士は酒飲むとざこwww」
「この酒が飲めたらなんでもやるよwww」
と言って、日本でも3本の指に入る家宝である日本号と取られた。
・嫁が嫉妬でキレて薙刀で切られそうになり、全力で逃げ出した。
・細川忠興公に「利休とか何が凄いの?茶人じゃん?」と言っていたが、後に「利休まじこえぇぇ戦場ではどんな奴も怖くねぇのに……」と言った
うぅ〜んこの人は格別にカッコいいのでダサい逸話をチョイスしてみたが、これだけ読むとただのダメ人間になってしまった……
ただの神
Twitterにてこの神の関連する話をよくなさる@jokouintake 様 がいらっしゃるので細かい話はそちらへ……
超面白いからオススメ。
黒田官兵衛に「息子に武芸を教えてくれ!」と頼まれるほどのもののふ
別名や漢字が多すぎて結局名前どれやねんと誰もが1度は思ってしまう。
こちらは実は武蔵とブログにて対談していますのでそちらをチェック
対談をしてくださった糟屋様のアカウントはこちら@kasuya_naokatsu
清正じゃない方とか言わないで
信長公の四男&秀吉公の養子の羽柴秀勝様の小姓だったが、秀勝様を差し置いて初陣して秀勝様の母親であるおね様を発狂させた。秀吉さんは「ええやん!戦う意欲あるやん!」と逆に評価しちゃった。
家臣にはめっちゃ優しかったらしい。
「豪傑はピンチで仲間を見捨てるからゴミ。本当に素晴らしい人ってのは責任感がある奴」という持論を持つ(頭痛が痛い)
ライバルは藤堂高虎。マジぶっころ。
頭にイカをかぶっているので有名
愛知県に銅像があります。
以上が賤ヶ岳七本槍の方々です。
実は他にも2人七本槍に数えられる程活躍した方がいるのですが、討死してしまったり、怪我が元で亡くなってしまったので入れませんでした……。(諸説あり)生きていれば9本槍だったのに!!
他にも石田三成公や大谷吉継公など沢山の若手が活躍した戦だったとか……
しかし、これは成り上がりだった秀吉公が自分の子飼いの将を宣伝して地位を確立させるための……ウワ、ナニスルヤメ……
何はともあれこの7人で賤ヶ岳戦隊7本槍ジャー
です。
選ばれし7人+2人……
あ……あれ?1人いない……
こんなところに……
「一番槍は俺だぜ親父!」と秀吉公の元へ向かう福島正則公。
なんだか可愛らしい……良き!良き!ええな市松!
しかし本人達からはこんな意見を……
福島「脇坂と一緒に俺を並べるな!」
清正「俺を七本鑓と言うな……」
う〜ん賤ヶ岳七本槍は創作と言われているアレもアレでアレなのです……
PS,4ヶ月ぶりの更新……この七本鑓の話で5週は持つはず……割と見てくださる方がいるのでもうちょっと頑張りたい…… 次回は徳川七本槍かな
エイプリルフール記念対談(ゲスト伊達政宗公)
【前日談】
武蔵「あの……エイプリルフールの企画として嘘がおお……えっと逸話が多々ある貴方様と対談をしたいのですが……」
???「了解しました。」
武蔵「ありがとうございまする!!それで日時は……」
???「1ヶ月後で」
武蔵「へ!?エイプリルフールは明た……」
???「冗談です。」
武蔵「:(´◦ω◦`):ガクブル」
【本文】
皆様!明日はエイプリルフールですな!
エイプリルフールといえば嘘をついてもいい日……。
宮本武蔵「そんな中で嘘をつきまくった大物をお呼びしました!」
宮本武蔵(以下武蔵)「さっそく自己紹介とブログを見ている方に一言お願いします!」
伊達政宗(以下政宗)「はい どうも 皆皆 嘘をつきまくった大物武将の伊達政む.... !? 」
武蔵「はい、伊達政宗公です。あぁ申し訳ありませぬ。言い訳をしたり偽りが多い大名様でしたな。失敬失敬」
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@datemasamune141
伊達 政宗(だて まさむね)
伊達氏の第17代当主
仙台藩の初代藩主
様々な戦にて活躍をした
(話が多くまとめられないので略)
(自分で調べようぞ!!)
武蔵「早速ズケズケと質問をしていきましょう!!」
Q1 寛永御前試合って本当にあったのですか!?
武蔵「はい、この【寛永御前試合】
なんのこっちゃと思う方もいるでしょう。
簡単に言うと江戸城内で行われた御前試合です。出場メンバーには伊達政宗公の他、うちの息子の伊織ちゃんも出ています」
武蔵「で、その【寛永御前試合】にて第七試合にて伊達政宗様は勝利したとされていますが本当にござるかぁ〜??」
政宗「そうですね この寛永御前試合では第七戦に秋元殿との一戦にて勝利したといわれてますが、この寛永御前試合が行われたとされる年は1632年」
政宗「この時 儂は65歳!
すっかりおジィさんになってます……」
政宗「おそらく儂らが没した後の偉人 勝海舟殿の創作でしょうな」
武蔵「伊織ちゃんの活躍は……伊織ちゃんの活躍はあったはずじゃあ!!嘘だぁ!!。゚(゚´Д`゚)゚。」
武蔵「誰じゃ勝海舟って!!妄想で『強い剣士を戦わせたら〜』とか考えるんじゃない!発想力現代人か!?」
Q2 お母様との不仲説!
武蔵「これは嘘というより逸話?有名な話ですな。ドラマなどでも大体不仲なのが世間様のイメージ……果たして実態は!?」
政宗「確かに小田原出兵の際にこの毒殺事件は行われたとされてますが この事について不審な点が幾つかあります」
政宗「まず毒殺事件によって 母との仲が不仲になったとされてますが その後にやり取りしたとされる文が残されています」
政宗「そのやり取りの手紙には朝鮮出兵の際に母からお小遣いを貰い そのお返しとして朝鮮土産をプレゼントするといったマザコ...ごほん ごほん のようなエピソードもあります笑」
政宗「また 関ヶ原の際には母を守るべく 最上家に援軍を送っています
(この時 闇に染まった小十郎が 「今なら最上家も上杉も潰せます」と提案しましたが笑 )」
政宗「このように 母との関係はさほど悪くはなかったように考えられます」
政宗「おそらくは小田原遅刻の言い訳、
または当時 伊達家内部では 小次郎派の武将もいたので それを無くすために芝居をうった可能性が高いですな 」
武蔵「なるほど……やっぱり母親は母親ですな……。」
武蔵「某は母上を見たことがないので知らんけど( ´•̥̥̥ω•̥̥̥`)」
Q3 遅刻の言い訳
武蔵「これはほぼほぼ今回の本題でしょう!紛うことなき嘘ですぞ!エイプリルフールでもないのに嘘をつきましたよね!?」
政宗「あ .... そろそろ政務の時間じゃ
本日は 対談有難うござ....」
武蔵「ということで本日の対談はここまで!ありがとうございました〜」
武蔵『コラコラコラ!!待たれい!!! 』
武蔵「何に遅刻をしたか!遅刻の経緯!言い訳!洗いざらい話して頂くぞ!!」
政宗「えーと 心当たりはないのですが たしか 太閤殿下が宇都宮城に大名を集めたときじゃったか
その時 やらかしてしまいました...…」
政宗「遅刻の経緯や言い訳としては
人や馬が疲れており 荷物も届かず遅れることは確実 本日の夜に出発して 明日の朝には到着できると思います
まさか この文の内容が400年後に晒されるとは……」
武蔵「遅刻とか最低ですな……
約束を守れぬ者とか最悪ですぞ……。それに加えその言い訳はちょっと……」
政宗「いやいや 武蔵殿も何やら佐々木小次郎との決闘の際に2時間遅刻してしまって後に言い訳したとかしていないだとか噂が……」
武蔵「は……はぁ?アレは作戦だし……
茶屋で団子食ってたとかないし……
作戦だし……」
武蔵「く……くぅ……腹の調子が悪くなったので対談もここまでと致しましょう……」
【武蔵厠へ……】┌| ∵|┘
_| ̄|○、;'.・ オロロロロロロロロロロロロロ
武蔵「ただいま戻りました」
「それでは伊達様、最後に全国の嘘つきとブログを見て下さってる方にまとめのお言葉を頂きてもよろしいでしょうか……?」
政宗「えーと 本日は武ログを見てくださって有難うございます!」
政宗「嘘をつく事は 決して全てが悪いことでは無く 時には自分の身や愛する家族や家臣などを守る事にも繋がります。 是非ともピンチや危機を嘘や言い訳によってチャンスに変えていきましょう!」
政宗「と ところで 武蔵殿
佐々木殿との決闘の際に2時間遅刻してしまった事について……」
武蔵「う……五月蝿い五月蝿い!!
そんな者知りませぬ!!
今日はありがとうございました!(強制終了)」
【後日談】
武蔵「うぅ……武蔵遅刻なんてしてないもん……。吉川英治先生の創作だもん……」
武蔵「ハッ!伊達様……」
政宗「?」
武蔵「伊達様……伊達様こそ眼帯などして……実は隻眼などではなくただの厨二病なのでは!?」
武蔵「この嘘つきめ!その眼帯の下をみせい!!」
(眼帯外しバッ!!)
武蔵「……??……あ……あああ
ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」
【半日後】
武蔵「ここは……???武蔵は一体何を……?」
嘘は身を助け
人には知らない方がいい真実もある
対談を相手は伊達政宗公でした!
ありがとうございました!
@datemasamune141
愛すべきマイナー武将(スペシャルゲスト:糟屋武則様)
さぁ!久しぶりの対談!
いや〜毎度毎度の事ですが緊張しますね〜
今回は賤ヶ岳7本槍の1人
糟屋武則様です!
……え?何方?と思う方も多いと思います。(失礼)
糟屋様は賤ヶ岳7本槍の中で唯一石田三成公に同情し、家臣の反対を押し切って三成公に味方したり
羽柴秀吉公の播磨攻めではお兄様が別所家に付いたので、家族の縁を切って秀吉公の家臣となったりと、波乱万丈の人生を送られた御方ですのでエピソードには事欠きません。
ちなみに関ヶ原は武蔵と同じ宇喜多秀家様の軍にいらっしゃいました!
身分の差がめちゃめちゃあって、相手になんてされてなかったけどね!
さて!長々と語ってしまいましたが糟屋様を待たせていますので早速お呼びします!
永禄5年(1562)生まれ
播磨の別所氏の家臣であったが、後に羽柴秀吉の小姓となる。
その後山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いなど数々の戦いに参加し、賤ヶ岳の戦いではその活躍により賤ヶ岳7本槍に数えられ、3000石余を拝借した。
晩年付いては色々な説がある。
宮本武蔵(以下武蔵)
「それでは今回のゲスト、糟屋武則様です!軽い自己紹介をばお願い致しまする!」
糟屋武則(以下糟屋)
「はい、大半の人は初めまして、1部の奇特な人はお久しぶり。
賤ヶ岳アイドルかすくんこと糟屋武則でござる!
今日はよろしくお願いいたす!」
武蔵「こちらこそよろしくお願い致しまする〜」
武蔵「そういえば糟屋様とは関ヶ原で一緒でしたな」
糟屋「でござったな!」
糟屋「某は宇喜多隊、武蔵殿は黒田隊?だったゆえ直接はまみえませなんだが懐かしき思い出にござる……」
武蔵「むむむ!最近の研究では武蔵も宇喜多隊にいたという説が主流なのですぞ!」
武蔵「……まぁ某は足軽風情でしたので同じ軍でも印象になかったのかと……」
糟屋「な、なんと!!」
糟屋「そうだったのでござるか失礼つかまつった……
とはいえあくまでも某は与力大名であったゆえ直接の関わりは難しかったのでござろうな……
今思えばなんと勿体ない……」
武蔵「いえいえ〜 雑兵である某が西軍にいたという資料があるだけでも奇跡なのですら……」
武蔵「糟屋様は播磨出身でしたかな?」
糟屋「ええ、播磨は加古川の出身でござる。
実は死没まで出身地を治めた数少ない将なのでござるが如何せん知名度が無さすぎて……
某の先代で義兄の朝正が治めている間は別所家の与力、某からは羽柴家の小姓組として活動させていただいておりました」
武蔵「なるほど……某も播磨出身でして……意外と接点がありまするな〜
では、羽柴家へ行った経緯など教えていただけますか?」
糟屋「これは同郷仲間として誇り高いですな!!」
「長いので所々端折りますが……」
「中国攻めを進める織田軍に協力していた別所家は突如離反、織田軍は窮地に陥ります。
その後、別所討伐のため羽柴秀吉(敬称略)は三木城を囲みますが内側からの突き崩しのため調略をしかけます」
「その頃羽柴軍で軍師を務めていた小寺(黒田)官兵衛殿は旧知であった某の義兄で勇将として名を馳せていた朝正に寝返りを持ちかけました」
糟屋「この時、恩を受けた別所を裏切る訳には行かないと断った朝正でしたがお家存続のため、まだ出仕していなかった某を羽柴軍へ送ったため、某は羽柴軍へ参じる事となったのです」
糟屋「まぁ、要するに関ヶ原における真田家の様な動きにござるな!」
武蔵「なるほど……政略として織田に送られた訳ですな!この決断が後に賤ヶ岳7本槍として名を上げる武則様に繋がるわけですか……」
武蔵「余談ですが秀吉公は播磨の支配に3年もかかったとか……天才黒田公と組んでもなお、それ程の時がかかるとは播磨……恐るべし(出身地贔屓)」
武蔵「さてさて、賤ヶ岳7本槍のイメージから武闘派として見られそうですが、武蔵は糟屋様は代官として才を発揮なされたなという印象です。」
武蔵「ちょっと武勇伝とかお聞きしても……?」
糟屋
「なるほど武勇伝でござるな」
「まずは賤ヶ岳においては
秀吉殿下が褒めちぎった櫻井佐吉殿ですら苦戦した柴田麾下の猛将宿屋七左衛門を一突きで討ち取っております!」
「更には福島正則のもたらした1番首拝郷家嘉殿に一番槍を着けたのは某!」
「それ以降は主に代官職を務めることが多かったのですが、
朝鮮の役においても1次晋州城攻防戦において、多数の首級をあげております!」
糟屋「余談でござるが、大坂夏の陣でも某が徳川方にて一隊を率いて大阪城にて奮戦したとの記録も…」
「まぁ、その話では最後に討死しておりますが!!!わはははは!!!」
武蔵「なるほど……惚れ惚れする武勇伝!流石羽柴家随一の武人ですな!」
「では、内政や外交で何かエピソードはございますか?」
糟屋「内政、外交においては堅実に職を務め過ぎたのか特に褒められる事績も、逆にやらかした事績も記録にほぼ無く……
ただ、伏見城や名護屋城の普請には加わっておりましたので何もしてないわけではないので責めないで…(涙」
糟屋「内政とは変わりますが、
豊臣秀次殿下が追放される際に、我が屋敷において保護をしておりました。
その間、石田三成殿にせめて女子供は助けてくれと熱心に乞うていたと言われております。
逆に全力で処刑に賛成していたとも言われてます」
「記憶が曖昧って怖いですな(他人事)」
武蔵「あ〜武蔵も竹村だったのか新免だったのか名前も思い出せない始末……怖いですな〜」
「では、曖昧な記憶()の中で自分の人生で最も辛かったことと、良かったことをばお願いします」
糟屋「まずは辛かったこと。
やはりこれは義兄との別れでござるな」
「散々義兄と言っているので察していただいてるかもしれませぬが、某と義兄朝正は所謂異父兄弟でして
某の実父は志村なにがしと申す播磨国人でござるが某が生まれた直後に討死した様で……
代わりに義兄上が某を養育してくれたのです」
「そんな義兄との別れは辛いものでござった……
それに義兄上は平井山合戦において某も見ている前で討死しておりまして……
これが戦国の世かと世を恨みそうになったものでござった……」
糟屋「良かったこと……うーん。
やはり、黒田如水殿からご長男の師に請われたことでござろうか……?」
「結局は断られましたが、次代の俊英と相見えられた上にあの鬼才黒田如水にそこまで評してもらえていたと思うと我が身の誇りにござるな!」
武蔵「親しき者との別れというのは辛いものですな…… 。悲しみを乗り越えたからこそ、糟屋様の武勇があると信じたい次第です」
武蔵「そして才ある者には才ある者がやはり分かるのですな……」
武蔵「それではそろそろ名残惜しいですが終了のお時間です」
「最後にお言葉を頂いてもよろしいでしょうか!?」
糟屋「いやはや、対談なんて初めてでござったが楽しい時間を過ごせました」
「では最後に
マイナー武将にも割と壮大な物語があったりする事が多いです!え、知らねだけで終わるのではなく是非とも興味を持ってくだされ!そうすれば記録の少ない我々も少しは報われますからな!!!」
「某大河で某を裏切り者扱いした大名ですらない平野の方が有名なのは悔しいですが……
ありがとうござった!!!!」
武蔵「ありがとうございました!良き対談ができました〜!」
「インタビューは宮本武蔵!
ゲストは糟屋武則様でした!」
いや〜7本槍は福島様と加藤様だけではないんだぞ!という感じでしたな〜
実はこの対談の前に武蔵は遅刻をしてしまいまして……。
寛大なる御心で許していただきましたが、時間をいただく立場がこれではいけぬな。うぅ……人の優しさに甘えてはいかんなと心に刻みました。
まぁ小次郎には謝らねぇけどな。
そんな糟屋武則様のTwitterアカウントはこちらです↓↓↓
@kasuya_takenori
それでは今日はここまで!
次回も対談にしようと考えておりまする〜
楽だから(๑>•̀๑)テヘペロ
宮本武蔵縁の神社や寺
いつの世も寺や神社は心を安らかにしてくれます。
日頃争いで心がいっぱいいっぱいの武人達は、祈願や信仰の為だけではなく、心を静められる場所を目指して寺や神社に言っていたのかも知れません。
今日は武蔵に縁のある寺や神社を紹介したいと思います。
①雲巌禅寺
その山の前にある雲巌禅寺。
とても神秘的な場所で、雲巌禅寺から霊巌洞に向かう道には、草木に覆われた細道の下に沢山の座られたお地蔵さんが沢山並んでいます。
そこから感じる空気は兵法家、宮本武蔵がなぜこの場を選び兵法書を書いたのか伝わるかのようです。
大河ドラマ「ムサシ」の際に建てられた記念碑などもあり是非とも1度は足を運んでいただきたい。
(熊本県西区)
②海巌山徳願寺
大きな松が目立つ、徳川家縁の地でもある徳願寺。
家康公〜家光公まで色々関係してます。武蔵と関係ないのでそこはスルー
武蔵供養のための石地蔵があり、武蔵が書いたとされる書もあります。
大きな閻魔大王像があったり、丸山応挙の書いた幽霊の絵があったりと見どころは満載。(見れるかどうかは置いておいて)
歴史好きにも寺好きも満足できると思います。
(千葉県市川市)
③雲晴寺
この寺の庭園は武蔵が作ったとされていました……。
空襲で全てなくなってしまったので現在は残っていません。
武蔵の孫弟子の墓石などもあり信ぴょう性がとても高かったのですが……。
残念でなりませんが、空気を感じるだけなら今でもできます!
南総里見八犬伝のモチーフとなった里見家の墓などもあり是非とも寄ってみてください。
ひょうたんのような池やらあってデカい庭園だったと伝えられています……。残念残念
④八大神社
「京都府?」「一乗寺?」と察しのいい武蔵ファンなら気づいたでしょう。
あの吉岡一門との決闘、一乗寺の下り松のすぐ近くです!
武蔵が吉岡一門60人と決闘(というかリ〇チ)する前日、この寺に寄ったのです。
ただ祈りもせず、鈴も鳴らさず寺を後にしました。
まさに
「神仏を尊い神仏に頼らず」
です。
まぁここで悟りを開いただとか言われていますが集団リ〇チに逢いにいく前に無の境地なんて……某もまだまだ小僧っ子だったので、吉川英治先生の創作の影響が強いかと
すぐ入口に武蔵の象と吉川先生の小説を抜粋した石碑があります。
この周辺は武蔵色に染まっていてとても楽しいのでオススメ。
他にも美作にある神社や武蔵神社なと色々ありますがとりあえずここまで
後日編集して続きをこのページにて綴りますのでよろしくお願いします。
ブログを更新しなさすぎて焦っているアレもあります。アレ
戦国バレンタイン
お久しぶりの更新ですな。
ちょっと猛獣(モンスター)を狩る者(ハンター)として忙しくて……。
さて、来たる2月14日といえばバレンタインデー
好きな方にチョコレートを贈る日ですな〜 今年は一体何百個貰えることやら……
今から300年ほど昔、チョコレートは「しょこらーと」と呼ばれ、カカオをドロドロの液体にひて砂糖を混ぜて甘くして飲んだり、そのままニガーいカカオ汁を人々は飲んでいました。
織田信長公「甘いの?食べたい!」
と、言われそうですがチョコレートが日本に伝わったのは1700年以降の江戸時代。
残念ながらチョコを食べた戦国武将はおそらくいません……(´>ω<`)アウチ
もしもチョコレートが伝わり、好意を示すために贈る文化が戦国時代あったのであれば箱は漆塗りの高級な箱を三重にして贈りましょう。
相手は
「器にも気を使うとは……奴は大物だ……。」
ということ間違いないでしょう()
さて、武田信玄公の逸話を挟みつつ今日はこの辺で終わろうと思いまする。
あまりにも話がなくて脱線しまくりの武蔵は皆様のバレンタイン成功をお祈りしておりまする。
さてさて貰えなかった、貰う予定がないという方は武蔵よりハッピーバレンタイン!
※FateGOより
それではまた次回!
刀の持ち方(?)
遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
今年もTwitter共々よろしくお願いします
@_Musashi634
昨年の10月末にブログを初め、すでに1000アクセスされまして大変ありがたい&嬉しく思っています。
駄文で読みづらい点やしょうもない話をする時もありますが今年も暖かい目で見守ってやってください。
さて!長くなってしまいましたが本題に行きましょう!
侍にとって刀は命です!
戦国時代、どこの武家の方も戦場で生き抜くため、己が武を誇示するために鍛錬しておりました。
江戸時代に入ると武芸者達は精神鍛錬や一般教養として嗜んできました。
そんな中剣を極めようとした者を兵法家といい、その中でもトップクラスだったのが私宮本武蔵です!!
……自画自賛?事実だから!!!
そんなタマスぃーの刀は一体どのような持ち方だったのか
まずは握り方です。
どの道具でも大体そうなのですがギュッと握り締めてはいけません
イメージでは卓球のラケットの様な持ち方が理想です。
人差し指と親指は脱力し、中指と薬指には余裕を持たせて締めます。そして小指はギュッと締めて完成です。
そういえばティモボルから劉詩文にラケットを変えた時の軽さは衝撃でした。
知識がなくマークがカッコよくて選んだのですが、女子も使えるという事だけありとても鋭い振りができてパワー=スピードというのを実感できましたねー 今はめっきりインナーフォースALCばかり使ってますが……
と余計な話をしてしまいましたな……
野球経験者の方はわかると思いますが、この握りは振ってボールに当たる時にはギュッと握り締めて力を入れなければ意味がありません。
脱力したままのコンニャクのような腕ではボールは飛びませんよね?
梨田選手もちゃんと力を入れてます。
で、左右の手は離して持って下さい。
野球の話をしておいてなんですが、左手と右手をくっつけるのはハッキリ言って爆笑です。
はい!これダメ!コンパクトに力を加えたいからと言ってこの持ち方はダメ!
ただしこれは竹刀でも日本刀でもない……
武蔵ねー西洋刀やら青竜刀の持ち方は知らぬのであくまで日本刀の話
この持ち方ですね。
ただし1人……上記の様な異質な持ち方をしていた歴史上の人物が……
土方歳三 君です……
先程爆笑物と言いました……言いましたよ……はい
しかし理にかなった持ち方なんです(矛盾)
そもそも新撰組は暗殺〜やら御用改(?)なるもので家に攻め入ったりすることが多かったらしいですね
その時に小回りがきくバットの持ち方はとても使いやすかったとされています。
……しかし!しかし!現代の剣道やらではこちらが正しいんだ!
取り消さない!俺の言ったことは……(割愛)
と、いうわけでただの土方歳三君の刀の握り紹介でした。
今回はここまで!
今年もよろしくお願いします〜