宮本ツイッタラー武蔵の雑記帳

Twitterで宮本武蔵をやっております。宮本武蔵です。Twitterではできない話&歴史と関係ない話をコソコソしようと思っていますが、所詮Twitterの延長線なのでよろしくお願いします。

吉岡一門との戦いは創作か?

宮本武蔵の何が凄いかと聞かれた時に、だいたい上がるのが1人で100人倒した伝説です。

「実は60人位らしい」

「そもそも吉川英治の創作」

「吉岡なんてそもそもいない」

など色々な事が言われていますが、果たして武蔵は吉岡一門と戦ったのか?について書いていこうと思います。

 

まずは吉岡一門とは何なのか

一言で言うと「足利将軍の剣術師範を任された剣術の流派!」です。

 

おぉ……将軍の……

という事は京で室町将軍家に仕えた名門……

ビックリ仰天ですが、実態が明らかになっていません。まぁ兵法の指南を将軍にしていたのは確かな様です。

 

では戦った証拠を武蔵側の目線で見てみました。

 

五輪書

「21歳で京に行き『天下の兵法者』と戦った」

「数度戦ったが勝ちは得られなかった。」

この天下の兵法者は恐らく吉岡の当主だったと思われます。

 

【二天記】(武蔵の弟子&細川家の家老の兵法指南役書いた本)

「21歳の武蔵に吉岡は幾度も倒された。」

 

【武公伝】

吉岡清十郎なるものに重傷を負わせ、後に死亡させた。」

 

とまぁ宮本武蔵側の意見はバラバラ

では吉岡側の話

 

【吉岡伝】

宮本武蔵は頭に一撃をくらい逃げ出した。」

「武蔵は決闘当日に現れず不戦勝」

 

 

……どっちやねん!!!

 

 

武蔵は勝ったのか!負けたのか!ハッキリしろや!

とまぁ100人切りについて何も無いどころか、決闘の記録もあやふやです。

しかし、吉岡とは決闘をしたようですね。

では吉岡の誰と戦ったのか

 

武蔵の息子の伊織ちゃんが書いた小倉碑文には

「兄の清十郎が洛北蓮台寺野で宮本武蔵との試合に敗れた。」

「そののちに弟伝七郎が戦い木刀を奪われ絶命」

と書かれています。

 

「ここ!バガボンドで見たところだ!」

 

しかし吉岡伝では伝七郎が兄という話もあるんです……。

更に吉岡伝にはコイツらの父とされる「吉岡憲法直綱」と戦ったとも書いてあります。

それも出血多量で武蔵が負けた&逃げたとね……。ふふふ調子に乗りやがって……。

 

ハッキリ言うと結論は謎です。吉岡側の資料が少ないと、武蔵側の資料は信ぴょう性がありません。

 

そもそも京で有名な吉岡一門が1人の男に潰されたら、それこそ大きな話題になるはずですから、何かしら資料が見つかる筈なのですが……

 

今回は戦ったかどうかなので、勝敗はどうでもいいとして、まぁ戦ったっちゃあ戦ったという事で結論にしましょう。(あやふや)

 

ここからは武蔵の想像なので、あくまでも想像として考えて下さい。

吉岡は武蔵に潰されたその後も大坂の陣で豊臣側として戦っています。

そしてその子孫は染物屋として残ったそうです。

ここで疑問。宮本武蔵大坂の陣で徳川内府様に「宮本武蔵は〜〜〜見事ナリ」と言われたそうだ。更に徳川の重臣水野勝成の息子の護衛をしていた宮本武蔵

宮本武蔵を出血多量で〇そうとした元決闘相手、もしくは武蔵の名を売るために嘘を付かれた張本人を生かしておくでしょうか?

「殿!吉岡なるものは討幕を企てます!ぶっ〇しましょう!」くらい言う権限を持っていた武蔵が行動をしなかったのは一体……

 

そもそも染物屋の吉岡は本当に剣術で有名だった吉岡一門の吉岡か謎です。

憲法色として武士に人気だった吉岡の染物は「元々兵法で有名な吉岡一門のものだったから」という理由があると思います。

故に商売繁盛させたかった染物屋の吉岡が

「うちはあの兵法流派吉岡一門だった!」

「その吉岡の子孫が作った『憲法色』だよ!」

宮本武蔵は実は吉岡憲法に負けているよ?

 

……吉岡ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”

早いうちに答えがでるといいですね

武蔵は待っとりますぞ?