巌流島の戦い
慶長17年(1612年)4月13日に関門海峡に浮かぶ無人島、船島にて宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をしました。この決闘は後に巌流島の戦いと呼ばれるようになり、日本一有名な戦いとして後世に伝わっています。剣豪宮本武蔵の名を聞くとこの戦いの事を思い浮かべる方も多いでしょう。
そんな巌流島の戦いですが、資料によって内容が異なり謎が多くあります。
今回は巌流島の戦いを資料別で書かれた時系列事に紹介します。
①小倉碑文(こくらひぶん)
宮本武蔵の養子である宮本伊織が慶応3年(1654年)に豊前国小倉藩手向山山頂(現在の福岡県と大分県)に建立した、自然石に刻まれた顕彰碑石(個人の功績を称え広めるために石に色々書いたもの)です。
武蔵の吉岡一門との戦いやら巌流島の戦いやら「武蔵やべー!」ってなる伝記が書かれてるヤツです。
それによると
1,宮本武蔵は1人で来た
2,敵の名は巌流
3,巌流は兵法の達人
4,同時刻に巌流島に到着
と書かれています。
②沼田家記
細川家家老だった沼田延元が寛文12年(1672年)に書いた、沼田家の後世に自分達の凄さを伝える武勇伝集です。武家にはよくあるアレです。
自分達の子孫に自分達の凄さ話を書くわけなので、嘘をつく必要が無い。ここに出てくる第三者の話は信ぴょう性が高い、ということになります。
「なんで沼田家の自慢話に武蔵の話が出てくるの?」という疑問が出ると思います。
これは
「超有名で最強無敵な兵法者、宮本武蔵が倒した、佐々木小次郎の弟子に報復されるのを恐れて、沼田家を頼った」
「沼田家は武蔵の親の新免無二の元に武蔵を無事に届けた」
という自分達はすげぇぞって話です。
そろそろ本題。この沼田家記によると巌流島の戦いは
1,宮本武蔵は弟子達を隠れさせていた
2,敵の名は小次郎
3,小次郎は豊前の兵法指南役
4,武蔵が倒された小次郎が息を吹き返した所、弟子達がトドメをさした。
武蔵が卑怯者だ!って言われるのは大体沼田家記のせいです。うんこ
③江海風帆草
勝野清中,宮本重利,吉田重昌らが書いたらしい知らん。宝永元年(1704年)に書かれたらしい知らん。
筑前の海事文書。多分見物人とかの証言とかそんな感じ知らん。これに関してはあんまり詳しくない知らん。
1,宮本武蔵は18歳
2,敵の名は上田宗入
3,武蔵の父無二と関係ある
こんな感じらしい知らん。Wikipediaには長門の兵法師範とか書かれてた知らん。
④本朝武芸小伝
正徳4年(1713年)に書かれた最古の日本武芸列伝。著者は天道流の達人日夏弥助繁高
武術の開祖とかについて色々書かれてる。
この本の上泉秀綱の話は映画「七人の侍」の種本だって脚本家の方が著書で言ってた。
面白い話が多いのでぜひ読んで欲しい
この本の中で巌流島の戦いは
1,武蔵は1人で来た。武蔵は仲間を連れてきたと両論書かれている
2,敵の名は巖流
話の内容は
船の運転手「兄さん!知ってるかい?今日は宮本武蔵と巖流ってやつが決闘するらしいんだ。兄さんは見物かい?」
巖流「俺がその巖流だよ」
船の運転手「マジか!だったら逃げた方がいい!武蔵は沢山の弟子を連れて待ち構えてる!こんな戦いで死ぬことは無い……」
巖流「貴方が言うことは最もだ。だがな例え死ぬことが決まっていようと約束を破る奴は侍じゃないんだよ。死んだとしても必ず武蔵に一矢報いてやるよ」
船の運転手「(感動)」
適当に訳すとこんな感じ。他にも面白い話沢山あるから興味があったら読んでみるといいよ(2回目)
⑤兵法大祖武州玄信公伝来
享保12年(1727年)
筑前福岡藩黒田家の家臣で筑前二天流五代師範で茶人でもある立花峯均が書いた。
武蔵の弟子の弟子の……って感じの人
武蔵の話ってよりは立花峯均の自伝って感じだが、一応武蔵の逸話集
この立花峯均のお兄ちゃんが千利休の事を書いた本があるのですが、ゴホンゴホンな内容だった。編集に立花峯均が関わっていたので、この武蔵の話も信ぴょう性は……うん
1,宮本武蔵19歳
2,敵の名は津田小次郎
3,小次郎は無二がビビる程の長門の兵法師範
ちなみに立花峯均は丹治って呼ばれる時もあるよ
⑥武公伝
肥後細川藩の筆頭家老松井家の二天一流兵法師範の豊田正脩が宝暦5年(1755年)書いた。
武蔵の弟子になったり、武蔵から書状や工芸品など色々貰ったりしている。武蔵と関わりが深い
武蔵の弟子達の話や、実際に武蔵が訪れた地を回って書いたとされる。武蔵のこと大好きかよ……
しかし残念ながら決闘については信ぴょう性が低い……。
武蔵の有名な「小次郎敗れたり!」「勝つ気があるのなら鞘を捨てないだろ!」と言った台詞はここから来ていたりする。すげー
巌流島の戦いの内容については
1,宮本武蔵29歳
2,敵の名は巖流小次郎
3,小次郎は富田勢源の弟子
吉川先生の宮本武蔵とかバガボンドとか多分この話が元なんじゃない?知らんけど
⑦二天記
安永5年(1776年)に豊田景英が書いた。
⑥の武公伝を読みやすく頑張ったモノ。
槍使いの奥蔵院や鎖鎌の宍戸との決闘とか書き加えた。
読み物としてめちゃめちゃ面白い。
信ぴょう性はそんなにないが、全部嘘って訳じゃない。史料にはすべきではないけど……
巌流島の戦いはこんな感じ
1,宮本武蔵29歳
2,佐々木小次郎18歳
3,富田勢源の弟子
武公伝とあんまり変わらないね
⑧兵法先師伝記
二天一流第7代師範の丹羽信英が天明2年(1782年)に書いた。越後国(新潟県)に二天一流を伝えたり、諸国を回って二天一流を広めた。
筆者の推し マジ推し
「武蔵の百年忌法要」の様子が書かれている超貴重伝記。
殆ど丹羽信英の目撃体験談日記。丹羽さんの興奮と感激がめちゃめちゃ伝わってくる伝記。
思わず推したくなるくらいにてぇてぇ
この中の巌流島の戦いは
1,宮本武蔵18歳
2,敵の名は津田小次郎
3,無二と何度も戦った豊前の兵法者
4,無二とは決着が付かず
父親の因縁の相手とされていて、父親並みの強者を倒したってことでドラマチック。一番好き。最推し てぇてぇ
⑨西遊雑記
九州地方の見聞記
天明3年(1783年)に書かれた。当時の九州地方の経済状況が分かる良い史料。地理学者の川古松軒が書かれた。
昔巌龍島は船島と呼ばれてたよ〜とか
佐々木小次郎は武蔵が沢山の弟子を連れて来たのを知っててやってきたよ〜とか
佐々木小次郎の勇姿に感動した地元民が佐々木小次郎の墓を築いた〜とか
小次郎がかっこよく書かれている。
はいはいどうせ武蔵は卑怯者ですよ
そんな巌流島の内容がこちら
1,宮本武蔵は門下4人を連れてきた
2,敵の名は佐々木巌龍
3,伊崎から渡島した武芸者
……なんだよ。なんか文句あるかよ
以上!様々な史料で見る巌流島の戦いでした。
それぞれ色んな違いがあって面白いと思います。
武蔵は集団リンチをした卑怯者なのか、それも兵法の内だと言うのか、それともそんなことしていないのか……
真相は謎の中……
まぁ……
小次郎に勝った事実は変わらないからね!!!!!
PS
小次郎の命日でもあるので巌流島に黙祷でもしてやって下さい。